2025.03.19
日本とアメリカの金融システムの違い:銀行員の実体験から
銀行への就職とバブル期の経験
銀行を選んだ理由と就職後の現実
私が大学を卒業後、銀行に就職したのは、やはり給与の高さが理由だったと思います。メーカーに就職した同級生と比較すると、約1.5倍の給与をもらえていました。バブル期が始まり、銀行も空前の収益を記録していたため、ボーナスも同世代の中では最も良かったのではないでしょうか。
そもそも私は、海外で仕事をしたいと考えていたため、商社への就職を希望していました。しかし、リクルート面談で出会ったある銀行員の先輩に、「商社に行ったら、砂漠で石油を買ってこいとか、ジャングルで材木を探してこいとか、どこに行かされるかわからないぞ。銀行は都会にしか支店がないから、そんな不自由はないし、給料も銀行のほうが高いぞ」と言われ、その言葉に影響を受けたのです。
しかし、実際に銀行に就職してみると、当時は土曜日も出勤で週休1日という勤務体系でした。そのため、多少の後悔はありました。それでも、銀行では多くの企業や経営者の話を間近で聞く機会があり、それがその後のコンサルティング業務の基盤になったと感じています。
国内支店での勤務とバブル期の融資
私は1985年から1990年までの約6年間、銀行に勤務しました。前半の期間は東京都港区の支店で働き、後半はニューヨーク支店へ異動となりました。
国内支店で勤務していた時期は、まさにバブルの走りの時期であり、国内融資の業務を経験しました。当時は不動産担保の価値が急上昇し、多くの企業が積極的に借り入れを行っていたため、銀行の融資業務は非常に活発でした。
バブル期の真っただ中で国内融資を経験したのち、私はニューヨークに転勤することになります。これは、当時の銀行員としては非常に恵まれたキャリアだったと思います。
ニューヨーク支店への転勤と金融システムの違い
国際部米州課での準備と転勤の経緯
ニューヨークへの転勤が決まると、私はアメリカの就労ビザが下りるまでの間、本部の国際部米州課での業務を手伝うことになりました。この部署では、アメリカ、カナダ、南米の各支店から送られてくる稟議書を本部で審査する役割を担っていました。
当時の銀行の新たな戦略として、米州(アメリカ・カナダ・南米)における審査プロセスの迅速化が求められていました。そのため、国際部米州課の業務をニューヨークに集約し、米州本部として移転させることが決定していたのです。この動きの一環として、私は入行わずか3年の平銀行員でありながら、ニューヨークへの転勤が決まりました。
転勤前には、アメリカ関連案件の膨大なファイルの英訳作業に携わる機会がありましたが、これまでの国内融資とはまったく異なるスキームに驚かされました。MBO(マネジメント・バイアウト)、LBO(レバレッジド・バイアウト)、プロジェクトファイナンス、ノンリコースローン、劣後ローン、シンジケートローン、証券化など、日本ではまだ一般的でなかった金融手法が数多く用いられていたのです。
日本の不動産担保に依存した融資とは異なり、企業や事業の収益予測、価値算定の手法を用いる金融手法は、日本の金融システムが10年遅れていると言われる理由を痛感させられるものでした。
アメリカ金融システムと日本の違い
アメリカの銀行では、融資業務と証券業務の兼業が認められており、単なる貸出業務(間接金融)にとどまらず、企業の発行する社債や株式の引き受けも可能でした。さらに、為替取引においても積極的にポジションを取ることができるため、アメリカの銀行収益は以下の4本柱で成り立っていました。
【アメリカの銀行収益の4本柱】
1.資金貸し出しによる利息収入
2.企業債務の保証手数料
3.社債や株式の売買による差益
4.為替取引によるアービトラージ収益
これらの収益目標は、本部から海外支店に設定され、支店ごとに達成が求められていました。なお、アメリカの銀行は基本的に法人取引のみを行い、個人の住宅ローンや個人事業主向けの融資はほとんど扱っていませんでした。
また、日本の銀行とは異なり、アメリカにはメインバンク制が厳格に存在しなかったため、取引先のリファイナンスについては、関係する銀行や証券会社が集まり、金融対応の協議を行った上で、新しいスキームを合意し、シンジケートローンで対応するという形が一般的でした。
ニューヨーク支店に着任後、私は新設される米州部の準備作業を進めると同時に、実際の案件の審査アシスタントを担当しました。配属先はコーポレートファイナンス課で、総勢23名が所属していました。この部署は非日系企業の取引を専門とするため、取引先はすべてアメリカ企業で構成されていました。
課長はフランク・マッデンというチェース銀行出身のアメリカ人で、日本人の先輩は5年上の1人だけという環境でした。秘書もイタリア系のディナと南部出身の黒人女性シャロンであり、清掃やティーサーブを担当するのはメアリーという女性でした。つまり、完全なアメリカの職場環境だったのです。
当然ながら、課内の会議や伝達事項、電話のやりとりはすべて英語で行われ、書類もすべて英語でした。ニューヨーク独特の高速な英語に圧倒されながらも、日々の業務をこなしていく必要がありました。
着任後の最初の3カ月間は、自分のマンションを探す時間すら確保できず、安ホテルからの出勤が続きました。さらに、慣れない環境の中での業務プレッシャーも重なり、精神的にかなり追い込まれていた時期だったと振り返ります。
ニューヨーク支店での業務と日本企業の影響
コーポレートファイナンス課での実務経験
私が所属したニューヨーク支店は、東海岸に位置し、西海岸のロサンゼルス支店とともに、アメリカのディール(大型案件)の審査・検討に忙しく対応していました。
ニューヨーク支店には、日本法人を担当する部署や公共資金を取り扱う部門、為替や債券を運用するディーリングルームなど、多岐にわたる専門部署が存在していました。総勢200名を超えるスタッフが勤務しており、その規模はまるで独立した金融機関のようでした。
私が担当したコーポレートファイナンス課では、多くの非日系企業の取引を扱っていました。そのため、ニューヨーク特有の高速な英語環境の中で、日々の審査業務に取り組むこととなりました。すでに東京本部の国際部米州課で稟議書を確認する機会があったため、案件に対する大きな違和感はありませんでしたが、実際の交渉や取引のスピード感には驚かされるばかりでした。
日本企業のアメリカ進出とジャパンマネー
当時のアメリカでは、銀行業界に限らず、日本の企業が非常に強力な資金供給者として存在感を示していました。多くの日本企業が、アメリカの収益不動産を購入したり、有力なアメリカ企業を買収したりする動きが活発化していました。まさに「ジャパンマネーがアメリカを買う」と言われる時代でした。
その象徴的な出来事の一つが、ニューヨークの中心に位置し、クリスマスツリーでも有名なロックフェラーセンターが三菱地所に買収されたことでした。これは、日本企業の勢いを世界に示す象徴的な案件となり、金融業界でも大きな話題となりました。
こうした流れの中で、アメリカ国内の大型案件には、日本の銀行も積極的にシンジケートローン(複数の金融機関が協調して融資を行う仕組み)に参加するよう求められました。私が勤務していたニューヨーク支店も例外ではなく、次々と持ち込まれる案件の審査や対応に追われる日々でした。
このように、日本企業の影響力が非常に大きかった時代に、アメリカの金融の最前線で仕事をする機会を得られたことは、私にとって非常に貴重な経験でした。金融の実務だけでなく、日本とアメリカのビジネスの在り方や、資本市場におけるダイナミクスを肌で感じることができたのです。この経験は、後のキャリアにも大きなインパクトを与えるものとなりました。
まとめ
本記事では、銀行員としてのキャリアを通じて経験したバブル期の国内融資、ニューヨーク支店での業務、そしてアメリカの金融システムの違いについて解説しました。日本の銀行が不動産担保を中心とした融資を行っていた一方で、アメリカでは証券業務を含む多様な金融手法が一般的でした。また、当時の日本企業はアメリカ市場で強い資金力を持ち、大型買収や投資を積極的に行っていました。
こうした金融環境の変化を理解し、自社に適した資金調達手段を選ぶことは、今の時代においても非常に重要です。しかし、金融の仕組みは複雑であり、適切な判断を下すことは容易ではありません。
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