2025.03.19
バブル経済の光と影:金融市場の変遷と企業経営の教訓
ニューヨーク支店での銀行員時代
バブル期の日本と海外金融市場の変化
私は1990年9月に、銀行のニューヨーク支店を退職しました。ちょうどその頃、日本のバブル経済は拡大の一途をたどっていました。
ニューヨークにいる私のもとにも、東京の新聞や電話を通じて情報が届きましたが、景気の良い話ばかりでした。日本企業は豊富なジャパンマネーを背景に、欧米の企業や事業、不動産を次々に買収していました。その中でも、三菱地所によるロックフェラーセンターの買収は、ニューヨークでも衝撃的なニュースとして報道されました。
当時、ニューヨーク支店では、MBO(マネジメント・バイアウト)やLBO(レバレッジド・バイアウト)、プロジェクトファイナンスといった、当時の日本にはなかったストラクチャードファイナンスが主流でした。特に、タイム社とワーナー社の合併というメガディールをはじめ、複雑な金融手法が日々の業務の大部分を占めていました。
私が所属していたコーポレートファイナンス課には、日本人の後輩が1人増えましたが、それでもアメリカ人の退職が相次ぎ、慢性的な人手不足の状況でした。アメリカ人の働き方は、「自分の職責を果たせば、他人の仕事には関与しない」というスタンスでした。そのため、日本人スタッフは、通常業務に加え、英文稟議書の和訳、資料整理、東京本部との連携といった運営管理の業務まで担う必要がありました。
この状況により、休日出勤は恒常化していました。私も土日のどちらかは、朝から夕方まで事務所で働くのが当たり前でした。
ニューヨーク支店での業務と査察の厳しさ
私の在籍中には、ニューヨーク支店と米州本部が、それまでのワールドトレードセンターの高層階から、大通りを挟んだワールドファイナンスセンターへと移転することになりました。
この引っ越しは、私が転勤する前から決まっていたようで、新築ビルの竣工に合わせ、スケジュール通りに実施されました。書類の整理や破棄、引っ越し準備などの作業量は膨大で、私自身、「日本人の引っ越し要員として転勤したのかもしれない」と感じるほどでした。
そんな忙しい日々の中で、特に厳しかったのは、ニューヨーク金融サービス局(NYDFS)による査察でした。日本でも大蔵省や日本銀行、銀行内の検査部による臨店調査がありますが、それと同じく、ニューヨークでも厳格な査察が行われています。
臨店査察は通常1〜2週間にわたり、事前に提示された取引先の稟議書や資料ファイルのチェックが実施されます。特に、タイム社とワーナー社のメガディールに関連する案件は、審査体制、稟議内容、価格設定、コミットメント内容と実際の実行内容の突合など、細かく精査されました。対象となる企業は100社ほどに及び、コーポレートファイナンス課だけでなく、日系企業取引課やミュニシパル課(公的機関向け融資)、トレーディングルーム、米州本部の審査部・監査部といった広範囲に影響しました。
査察対応のため、日本語の稟議書を英文に要約したり、査察官への説明に同席したりと、通常業務どころではない忙しさでした。また、ニューヨーク支店にはアメリカの金融当局だけでなく、日本の金融当局の査察も入ります。大蔵省や日本銀行の査察、さらに銀行内の検査部の臨店検査もあり、「年間で一体何回の査察があるのか」と感じるほどでした。
ただし、日本からの査察は、基本的に日本の法律の適用範囲外の業務であることや、収益発生および納税がアメリカで行われていることから、形式的なものでした。主に取引先ファイルに添付された「ラインシート」と呼ばれる案件要約ページの確認が中心でした。
さらに、日本の金融当局の査察官は、わざわざアメリカまで出張で1週間ほど滞在するため、業務時間外には観光を楽しむことも多かったようです。実際の対応は支店長や副支店長、課長、Senior Officerが交代で行っていました。
このように、ニューヨーク支店での業務は非常に忙しく、常に緊張感のある環境でした。
銀行を辞めた理由と新たな挑戦
日本の銀行業界の現実と将来への不安
ニューヨーク支店での多忙な日々の中、ある冬の土曜日、残ってしまった稟議書の和訳作業を片付けようと休日出勤したときのことでした。ふと窓の外を眺めながら、自分の将来について考え始めました。
当時の大手都市銀行の人事制度は、日本的経営の典型であり、「年功序列制度」と「終身雇用制」が強く根付いていました。給料は固定され、昇進も決められたペースで進むため、長く勤めても大きな変化は望めません。
ニューヨーク支店や米州本部には、自分の5年後、10年後、20年後の姿となるような先輩たちが数多くいました。「あの先輩のようになっていくのだろうか」と思うと、自然と夢や希望が薄れていくように感じました。そんな思いが募る中で、何の準備もないまま、私は突然、辞表を提出したのです。
突然の辞表提出とコンサルタント業への転身
銀行を辞めた後、私は3カ月ほどアメリカ各地を旅しながら、知人を訪ねて骨休めをしました。その後、日本に帰国しましたが、仕事のあても全くありませんでした。
そこで、銀行時代に築いた人脈を頼りに動き始めたところ、2社のコンサルティング業務を受託することになりました。そのうちの1社は、マスコミなどでも有名な医師が経営する超高級女性専用エステサロンでした。
このエステサロンは、東京都港区の一等地にある高級オフィスビルの商業スペースに開設され、会員制で運営されていました。オーナー医師は、同じ港区内に2つのクリニックを持っており、それらと連携することで、医療サービスも含めたエステを提供していました。
施設の会員システムは、正会員入会権1,000万円、年会費300万円という高額なもので、すでに24名の正会員が入会し、入会金および年会費の支払いも完了していました。しかし、設備投資にかかった費用は、海外製の高級機器を導入したこともあり、総額3億円とも5億円ともいわれる規模でした。
施設には、エステシャン10名、看護師3名が常駐しており、人件費は月額800万円近くに上りました。さらに、オーナー医師の月給200万円を加算すると、毎月の人件費は1,000万円にも達していました。
しかし、会員の新規募集は思うように進まず、私がコンサルタントとして関与した時点で、会社の資金残高はすでに5,000万円を切っている状況でした。そこで、私はまず機器を再リースにかけ、キャッシュフローを確保することにしました。
購入時の機器総額は約1億2,000万円でしたが、これを1億円で再リースできるよう、大手リース会社数社と交渉を開始しました。結果として、8,500万円での再リースにこぎつけ、緊急の資金繰りを改善することができました。
しかし、1991年にはすでにバブル崩壊の兆しが見えており、高額な会費を支払える顧客は減少の一途をたどっていました。結果的に、私がコンサルティングを始めてから半年後、このエステ会社は倒産してしまいました。
最終的には、銀行からの融資も断られ、エステ事業を支えていたオーナー医師の2つのクリニックの収益も差し押さえられ、クリニック自体も閉鎖に追い込まれました。この時点で、私はこの会社との関係を断ちましたが、その後、オーナー医師は某大手ホテルチェーンのオーナー一族に助けられ、東京港区六本木で芸能人向けのクリニックを再開しました。
一方で、エステで働いていた従業員13名は、一斉に失業することになりました。にもかかわらず、このオーナー医師は彼らに対して何の責任も感じていない様子でした。エステの最後の3カ月間、従業員の給料すら支払えなかったにもかかわらず、新車のメルセデスに買い替えるような放漫経営を続けていたのです。
このような経営者の会社も、バブル期であれば存続することができたのです。
コンサルティング業の開始とバブル崩壊の影響
高級エステサロンの経営支援と資金繰り対策
私は銀行を辞め、帰国後にコンサルタント業を開始しましたが、その時期は日本経済が大きく変動するタイミングでした。まさに、バブル経済の崩壊が決定的になりつつある頃だったのです。
バブル経済の発生は、1985年のプラザ合意後に進行した米ドル安・円高がきっかけでした。これにより、自動車、鉄鋼、造船、電機といった日本の輸出産業は、輸出の頭打ちによって軒並み業績を悪化させました。こうした状況に対し、政府と日本銀行は、内需主導型の経済へと転換を図るため、量的緩和と公定歩合の引き下げを実施しました。
その結果、企業は資金を調達しやすくなり、事業拡大のみならず、不動産や株式、債券などへの投資資金を活発に運用するようになりました。企業業績は軒並み好調となり、株価は急騰し、消費者の給与も上昇しました。これに伴い、物価もインフレ基調となり、都市部の不動産価格は右肩上がりを続けました。銀行の融資も積極的に行われ、高級マンションや高級住宅街の一戸建て需要も急増しました。
余剰資金は、不動産だけでなく、ゴルフ会員権、高級外車、貴金属、高級家具、高級時計、絵画など、あらゆる高額商品へと流れ込み、市場は過熱していきました。
この時期、私はある超高級エステサロンのコンサルティングを受託しました。このサロンは、東京都港区の一等地にある高級オフィスビルに入居し、会員制で運営されていました。オーナーは、マスコミでも有名な医師で、港区内に2つのクリニックを経営しており、それらと連携することで、医療サービスも含めたエステを提供していました。
サロンの入会費は1,000万円、年会費は300万円という超高額設定でした。すでに24名の正会員が入会し、入会金と年会費の支払いも済んでいました。しかし、設備投資額は3億円とも5億円とも言われ、運営コストも非常に高額でした。
エステシャン10名と看護師3名が常駐し、人件費だけで毎月800万円に上っていました。オーナー医師の月給200万円を加算すると、毎月の人件費は1,000万円に達していました。
私がコンサルティングを開始した時点で、サロンの資金残高はすでに5,000万円を切っていました。新規会員の募集も思うように進んでおらず、経営は危機的な状況に陥っていました。そこで私は、キャッシュフローを確保するために、高額な設備機器を再リースにかけることを提案しました。
導入された機器の総額は約1億2,000万円でしたが、私は大手リース会社数社と交渉し、最終的に8,500万円での再リース契約を取り付けることに成功しました。これにより、一時的な資金繰りの改善にはつながったものの、根本的な経営問題の解決には至りませんでした。
バブル崩壊による事業の破綻とその結末
バブル経済の急激な崩壊により、不動産価格は暴落し、市場全体が縮小していきました。その影響を受け、高額な会費を支払える顧客は急減しました。
そもそも、バブル経済の終焉は、1989年から始まった公定歩合の引き上げに端を発しています。日本銀行は段階的に金利を引き上げ、最終的には6%にまで達しました。そして、1990年3月、第2次海部内閣のもとで大蔵省が総量規制を実施しました。これにより、不動産関連融資に対して各銀行の融資残高に上限が設定され、資金の流れが一気に制限されることになりました。
総量規制は1991年12月まで続き、約1年9カ月間にわたって不動産市場の資金調達が厳しく制限されました。その結果、不動産取引は激減し、不動産価格は急速に下落しました。この流れにより、バブル経済は完全に崩壊したのです。
エステサロンも、このバブル崩壊の影響を受け、半年後には倒産しました。銀行からの融資は断られ、オーナー医師の経営する2つのクリニックも収益が差し押さえられ、最終的には閉鎖に追い込まれました。
私もこの時点で、この会社との関係を解消しました。しかし、その後、このオーナー医師は某大手ホテルチェーンのオーナー一族の支援を受け、東京・六本木で芸能人向けのクリニックを再開しました。
一方、エステサロンで働いていた13名の従業員は、一斉に失業することになりました。それにもかかわらず、オーナー医師は彼らに対して何の責任も感じていない様子でした。エステの最後の3カ月間、従業員の給料が支払えなかったにもかかわらず、新車のメルセデスを購入するなど、放漫経営を続けていました。
こうした経営者の会社も、バブル期であれば何とか存続することができたのです。しかし、バブル崩壊という現実の前では、いかに派手な事業であっても、一瞬で終焉を迎えてしまうという厳しい現実を、私は目の当たりにしました。
まとめ
本記事では、バブル期の日本経済と海外金融市場の変化、そしてバブル崩壊による企業経営への影響について解説しました。バブル経済の発展と崩壊は、多くの企業に成長の機会をもたらす一方で、過剰投資や不安定な経営基盤の問題を浮き彫りにしました。
特に、資金繰りの管理や市場の変動に対する適応力が企業の生き残りを左右することを、エステサロンの事例を通じてご紹介しました。バブル期には存続できたビジネスモデルも、経済環境の変化に対応できなければ、短期間で崩壊するリスクがあることが分かります。
このように、経済の変動に柔軟に対応し、適切な資金調達戦略を講じることは、企業の成長と存続に不可欠です。しかし、金融の専門知識や市場分析を自社内で行うのは容易ではありません。
そんな企業様に向けて、HTファイナンスは力になります。
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