• TOP
  • 新着情報
  • バブル期の金融システムとその崩壊:銀行業務の実態と教訓

バブル期の金融システムとその崩壊:銀行業務の実態と教訓

プラザ合意後の日本経済と金融政策の変化

金融緩和とバブル経済の加速

前回のコラムに続き、プラザ合意後の銀行の現場の様子を、私の経験を交えてお話しします。

日本では、プラザ合意による米ドル高是正=円高の影響で生じた不況を克服するため、利下げやマネーサプライ総量の緩和といった金融緩和策が導入され、国内需要を刺激する方向へと経済が進みました。この時期から、日本国内のバブル経済はさらに過熱し、極端な不動産価格の上昇や過剰な融資が目立つようになっていきます。

ここでは、当時の金融環境の中で私が担当した、特徴的な3つのエピソードを紹介します。

最初のエピソードは、私が担当していた一軒のお蕎麦屋さんの話です。このお蕎麦屋さんは、間口10メートルほどの小さな店でしたが、長年地域に根ざした営業を続けていました。実は、当時の銀行員にとって、お蕎麦屋さんは注目すべき業種でした。なぜなら、そばは日本のファーストフードとして安定した需要があり、店舗の立地が良ければ大きな損失を出すことがほぼなかったからです。また、そば粉と小麦粉の配合を調整することで、原価を自由に操作できるため、税務対策がしやすいことも特徴でした。

このお蕎麦屋さんの預金残高は億単位で、安定した経営を続けていました。しかし、「プラザ合意」による金融緩和の影響で、預金金利が極端に低下してしまったのです。そこで店主から、「もっと有利な資金運用の方法はないか」と相談を受けました。

銀行融資の拡大と不動産市場の活況

店主は一般的な金融商品や株式投資には関心がなく、これまでは航空機リースなどのレバレッジドリースを利用していました。しかし、急激な為替変動のリスクを懸念し、この方法も継続できなくなっていました。

ちょうどこの頃、東京都港区では、金融緩和による低利融資を活用した不動産開発が盛んに行われていました。銀行主導で進められたこのプロジェクトでは、小規模な土地所有者にもビル建設を促し、テナント収入を得るビジネスモデルが次々と生まれていました。この動きに着目し、私は本部の企画部と協力して、このお蕎麦屋さんにも「ビル経営」という新たな選択肢を提案しました。

店主はこの提案に賛同し、7階建ての小規模ビル、いわゆる「えんぴつビル」を建設することを決定しました。総融資額は約5.5億円で、表参道の土地評価額7億円を担保に、中小公庫との協調融資として1週間で審査が完了しました。銀行が3億円、中小公庫が2.5億円の融資を実行し、店主は手持ちの預金には一切手を付けずにビル経営を開始したのです。

ビルは表参道の一等地にあり、大通りに面していたため、テナント募集も順調に進み、3ヶ月で全フロアが埋まりました。ビルの1階にはリニューアルしたお蕎麦屋さんが入り、店主は新たに「社長」として、不動産経営をスタートさせました。店舗自体は赤字部門として運営されていましたが、ビル全体としては十分な収益を上げることができ、節税対策としても有効に機能しました。

このように、プラザ合意後の銀行業務は、バブル経済をさらに加速させるような不動産関連の融資案件を数多く取り扱っていました。事業の収益性を細かく検証しなくても、立地と不動産価値さえ確保できれば、成功が保証されるような時代だったのです。銀行の融資姿勢も積極的で、いくらでも新たな融資案件を生み出せる環境が整っていました。

しかし、私はこの急激な経済成長に対して、2つの大きな不安を抱えていました。1つ目は、日本全体がバブルに浮かれすぎており、いつかこの好景気が終わるのではないかという漠然とした不安です。2つ目は、銀行の融資審査が担当者の主観や「好き嫌い」によって大きく左右される状況であったことです。これにより、情実融資や不正融資が増え、銀行の健全性が損なわれていくのではないかと危惧していました。

こうした不安を抱えながらも、バブル経済の勢いは止まらず、銀行業務は融資拡大の一途をたどっていきました。しかし、このような状況がいつまでも続くはずはありませんでした。やがてバブルが崩壊し、銀行業務の根本的な見直しが求められる時代が訪れることになるのです。

バブル期における銀行業務の実態

過熱する融資競争と企業の資金調達

プラザ合意後、日本の銀行はバブル経済をさらに加速させるような不動産案件を積極的に取り扱い、内需拡大に大きく貢献しました。この時代の特徴は、事業の収益性よりも「立地と不動産の価値」が重要視され、事業が成功するかどうかは二の次となっていたことです。金融緩和によって市中に出回るマネーサプライは大幅に増加し、銀行員にとっては融資案件を次々と生み出すことができる、いわば「貸し放題」の時代でした。

しかし、私は当時の銀行業務に対して2つの不安を抱いていました。

1つ目は、異常なほどの好景気が続いていることに対する漠然とした不安です。繁華街では人々がどんちゃん騒ぎをし、終電があるのにタクシーはなかなか捕まらない。休日にはゴルフやクルーズなどの贅沢が当たり前になり、日本中が浮かれた雰囲気に包まれていました(ちなみに、1985年には阪神タイガースが優勝し、大阪ではお祭り騒ぎが最高潮に達していました)。しかし、私はこの状況がいつまでも続くとは思えませんでした。

2つ目は、銀行の業務そのものに対する疑問です。案件の審査基準が担当者の裁量に大きく依存しており、好き嫌いで融資の可否が決まるケースが多かったのです。これにより、情実融資や不正融資が増え、銀行の健全性が損なわれていく危険性を感じていました。

住宅ローン市場の拡大とそのリスク

こうした状況の中で、私はある住宅ローン案件を担当することになりました。住宅ローンは銀行にとって大変安全で高収益な融資商品であり、法人向け事業資金よりも金利が1〜2%高いだけでなく、以下の3重の保証がついているため、貸し倒れリスクが極めて低いと考えられています。

・購入物件への抵当権設定

・団体信用生命保険への加入

・同居家族の連帯保証の徴求

このように、住宅ローンは厳重な審査基準を備えており、政府の指導のもと金融緩和に伴う住宅取得の奨励策としても推奨されています。

そんな中、支店の貸付課の窓口に若い社長が訪れました。彼は内装デザイン会社を設立したばかりの28歳のインテリアデザイナーで、近々結婚する予定のため、住宅ローンを組んで家を購入したいという相談でした。会社を設立したばかりで、1期目の決算もまだ終わっておらず、月商は200万円にも満たない状況でした。会社のスタッフは婚約者ともう1名、月の経費は彼の給料を除いて約180万円というギリギリの経営状況。運転資金も資産家である父親からの借入金で賄っているという状態でした。

彼が購入を希望していたのは、東京都内の高級住宅街にある約1億円の一軒家でした。不動産の担保価値を売買価格の7割とした場合、自己資金で補う必要がありました。しかし彼は、「全額ローンで借りたい。自己資金は1割が限界」と主張しました。

私は住宅金融公庫と相談することにしましたが、地域担当者の反応は非常に厳しいものでした。

「28歳で1億円の一軒家?分不相応でしょう。起業して1年も経っていないし、返済能力を判断する材料がほとんどない。」

確かに、私も彼が小型のメルセデスに乗って支店に現れたのを見て、少し気になっていました。時はバブル期。駆け出しの若い社長たちの中には、成功体験がほとんどないにもかかわらず、自分の万能感を信じ、過大な希望を抱く人も少なくありませんでした。彼もその典型的な例だったのかもしれません。

この案件を通じて、私は自分が感じていた2つの不安を再確認しました。住宅金融公庫の担当者は、私より20歳以上年上で、高度経済成長期を支えてきた経験豊富な人物でした。そのため、案件に対する「違和感」や「警戒心」が私以上に鋭かったのでしょう。

法人融資の世界も同じで、バブルの影響で無謀な案件が次々と持ち込まれる状況でした。審査基準が甘く、担当者の裁量で融資の可否が決まる状況は、「当たれば大きいが、外れれば不良債権になる」まさにもろ刃の剣だったのです。新しい企業を支援し、成長させるチャンスがある一方で、適切なリスク管理をしなければ、将来的に大きな問題を生む可能性があります。

結局、Hさんの住宅ローン案件は、稟議書にすらならず却下されました。断りの電話を入れた際のHさんの怒鳴り声は、今でも記憶に残っています。

このように、バブル期には銀行が過剰な融資を行う一方で、審査基準が曖昧なまま大きな資金が動いていたのです。こうした状況は、バブル崩壊とともに大きな歪みとして露呈することになります。

金融業界のガバナンスと内部不正

融資審査の形骸化と不正の横行

バブル期の銀行業務は、業績拡大を最優先する体制のもと、融資審査の形骸化が進み、担当者の裁量に大きく依存する状況になっていました。その結果、不正融資や情実融資が横行し、金融機関の健全性が次第に揺らいでいったのです。

そんな中、私の勤務していた支店で大きな事件が起こりました。直属の上司であり、業績優秀な支店の中心人物だった課長が、有力支店の副支店長に栄転しました。しかし、転勤から1〜2か月後、彼は地下鉄の駅で電車に飛び込み、自ら命を絶ったのです。

その一報が届いた直後、本部の検査部が支店に緊急査察に入りました。私たちは、課長の葬儀に参列した帰りにその査察対応に追われ、混乱の中で事態の全容を知ることになります。

課長は、個人の取引先から預かっていた1億円以上の預金を、担当していた企業に不正融通していました。その企業は放漫経営によりキャッシュフローが逼迫しており、資金繰りを維持するために架空の資金需要を作り、支店決裁権限内で融資を実行していたのです。しかし、課長の転勤後、預金の解約を求める顧客が支店を訪れたことで事件が発覚しました。

さらに調査が進むと、課長が融資した資金の一部は、企業の社長を経由して彼自身にバックマージンとして還流しており、その金を株式投資に流用していたことが明らかになりました。その企業は、表向きはアパレルの製造販売を行っていましたが、実態は不動産投資を手掛ける会社でした。そして、仙台の不動産取引が失敗したことで資金繰りが完全に破綻し、倒産に至ったのです。

銀行は被害を最小限に抑えるため、預金主には元本と約定利息を保証し、事件を公にはしませんでした。もし金融当局に知られていれば、マスコミの報道や行政処分、社会的制裁が避けられなかったでしょう。この事件は、バブル期の銀行の闇を象徴する出来事だったと言えます。

バブル崩壊と金融機関の経営危機

バブル期の金融システムは、表向きは法律や行政指導によって整備されていました。しかし、実態は融資競争による審査の甘さ、担当者の裁量依存、そしてガバナンスの欠如により、不正の温床となっていたのです。銀行は、プラザ合意後の内需拡大の波に乗り、次々と融資を拡大していきましたが、その裏では金融機関としての健全性を損なうリスクを抱えていました。

私たち現場の銀行員は、本部が指示する預金・貸付目標の達成が正しいと信じ、ひたすら業務に邁進していました。しかし、時にはその目標が間違った方向へ進み、融資の乱発や不正取引につながることもあったのです。

バブル経済が進む中、こうした金融システムの問題点は見過ごされていました。しかし、バブル崩壊とともに、隠されていた数々の不正が明るみに出ていきます。従来の自由度の高い日本の金融システムに対して、金融当局は厳格なルールを設定し、管理体制の強化を進めていくことになりました。

この時期、私はニューヨーク支店への転勤を命じられ、バブル崩壊後の不良債権処理が本格化する頃に帰国しました。その後の日本の金融業界がどのように変化していったのか、次回のコラムでお話ししたいと思います。

まとめ

バブル期の日本経済は、金融緩和と過剰な融資競争によって急成長しましたが、その裏ではガバナンスの欠如や不正取引が横行していました。銀行は、不動産市場の活況を背景に審査を甘くし、企業の信用力よりも担保価値を重視する傾向が強まりました。しかし、バブル崩壊によってその矛盾が表面化し、多くの金融機関が経営危機に陥りました。

現在の金融システムは、当時の教訓を活かし、ガバナンス強化やリスク管理の徹底が求められています。企業にとっても、適切な資金調達と経営戦略の見直しが欠かせません。しかし、複雑な金融環境の中で、最適な融資プランを選択することは容易ではありません。

そんな企業様の資金調達をサポートするのが HTファイナンス です。
HTファイナンスは、専門的な知見を活かし、企業のニーズに合った融資プランを提案し、安定した経営環境の構築を支援します。30年以上の実績を持ち、法人向けの資金調達を幅広くサポートしておりますので、ぜひお気軽にご相談ください。

まずは借入枠診断からお申込み

 

監修者 三坂大作
筆者紹介
ヒューマントラスト株式会社 統括責任者・取締役
三坂 大作(ミサカ ダイサク)

経歴
1985年 東京大学法学部卒業
1985年 三菱銀行(現三菱UFJ銀行)入行
1989年 同行ニューヨーク支店勤務
1992年 三菱銀行退社、資金調達の専門家として独立
資格・認定
経営革新等支援機関:認定支援機関ID:1078130011
ヒューマントラスト株式会社:資格者 三坂大作
貸金業登録番号:東京都知事(1)第31997号
ヒューマントラスト株式会社:事業名 HTファイナンス
貸金業務取扱主任者:資格者 三坂大作
資金調達の専門家として企業の成長を支援
資金調達の専門家として長年にわたり企業の成長をサポートしてきました。東京大学法学部を卒業後、三菱銀行(現三菱UFJ銀行)に入行し、国内業務を経験した後、1989年にニューヨーク支店へ赴任し、国際金融業務に従事。これまで培ってきた金融知識とグローバルな視点を活かし、経営者の力になることを使命として1992年に独立。以来、資金調達や財務戦略のプロフェッショナルとして、多くの企業の財務基盤強化を支援しています。 現在は、ヒューマントラスト株式会社の統括責任者・取締役として、企業の資金調達、ファイナンス事業、個人事業主向けファクタリング、経営コンサルティングなど、多岐にわたる事業を展開。特に、経営革新等支援機関(認定支援機関ID:1078130011)として、企業の持続的成長を実現するための財務戦略策定や資金調達のアドバイスを提供しています。また、東京都知事からの貸金業登録(登録番号:東京都知事(1)第31997号)を受け、適正な金融サービスの提供にも力を注いでいます。
前へ

プラザ合意がもたらした日本経済の変革と金融システムの進化

一覧へ戻る

日本とアメリカの金融システムの違い:銀行員の実体験から

次へ